GHQによる占領が解除されて3日後の1952年5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半ごろまで続いた。
この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ 2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警官の阻止を突破して北に向い、その途中では駐車中の外国人自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壞しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ[1][2]。乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していたこん棒、竹やりで執拗な攻撃を繰り返して警官1人を内堀に突き落とし、他の多くの警官も負傷する状態に至り警官隊は止むを得ず後退を始めた[1]。応援の警官隊が到着してその総数は約2,500名となったがデモ隊は数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなった[1]。警官隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を使用し、ようやくデモ隊は後退を始めた[1]。この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、こん棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突落し、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した[1]。同時に別のデモ隊は外国人自動車等にこん棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた[1]。警官とデモ隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。警察官側の負傷者は、重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名、合計約750名、外国人の負傷者は合計11名、デモ隊側は死者1名[3]、重軽傷者約200名に及んだ。
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